彼女の事


 ― 彼女の事を思うと心が温かくなる ―


「よぉ兄ちゃん! 元気に働いてるか?」
 俺と同じグレーの囚人服に身を包んだおじさんが俺に話しかけてきた。
「元気に働かなくちゃここから出れませんから……嫌でも元気ですよ」
 そりゃ違いねぇとおじさんは言った。


 俺は今刑務所にいる。
 情状酌量の余地無しとして下った判決は、十年間刑務所で暮らす事だ。
 今は三年目で、ここの生活にもある意味慣れてしまった。
 朝起床して、夕方まで働き、夜は寝る。
 精々その途中に食事の時間と、少々の休憩時間が入るぐらいだ。


「そういや兄ちゃん……あんた新聞とか読むか?」
 新聞。
 久しく聞かない言葉だった。
 俺は外部からの届け物は全て拒否していた為、この三年間全く外部の情報は囚人同士の会話から漏れ聞こえた物以外は知らない。
「あのよ兄ちゃんが良ければ、一日遅れの新聞だけど兄ちゃんにやるよ?」
 突然の提案に疑問が拭えない俺がいた。だから逆に質問し返す。
「どうして俺に?」
 別にこのおじさんと親しいわけではない。食事の際に机が一緒になった時に喋る程度の仲だ。
 その程度の仲でしかない俺に、何故そんな提案をするのかが分からなかった。
「……変な話だがよ。兄ちゃんここに来てから表情に変化が無いから」
「表情に変化が無いって……当たり前じゃないですか。こんな所で笑える奴いないでしょう?」
「そうか? 周りを見てみろよ」
 おじさんに促され周りを見る。
 ある者は自分の境遇に嘆き、憤り、恨んでいた。
 だが一様に皆、様々な感情を表情として出している。
 そして目の前のおじさんは……笑っていた。
「こんな場所でも変化はあるんだ……だが兄ちゃんには無い。だからこそ俺は兄ちゃんの表情を変えたくなった」
 自分自身が気づいていないだけで、俺はまた感情を凍らせていたのだろうか。
 もう外で俺を待っている人間などいないという事を、自然とここで暮らすうちに受け入れていたのだろうか。
「でどうするよ?」
「……まぁ貰えるのならば遠慮はしません」
「そうか。じゃあ明日から看守に持っていかせるぜ」


 その日から俺の部屋に日付が一日遅れの新聞が届くようになった。
 届けに来る看守におじさんと関係を聞くと、仲が良いだけ。という返事が返ってきた。
 看守と囚人が仲が良いのは良くないだろと思ったが、思うだけに留めておいた。
 届けられた新聞に目を通す。
 久しぶりに見た新聞は三年前と変わらず、情報が違う以外は全て同じだった。
「昔はよく読んだんだけどな」
 情報こそが俺の武器だったのだから当然と言えば当然だ。
 だからこそ今だから読める部分もあった。
「……ないか」
 自然と目が追っている部分には、俺が期待した情報は載っていなかった。
「そう簡単にはいかない……よな」
 脱力して新聞を脇に置く。
 硬い地面に敷いた布団に転がる。
 地面から伝わる冷たさが何かを訴えている気がした。


 ― 彼女の事を思うと胸が痛くなる ―


 新聞が届けられるようになった日から、幾日が経ったか分からなくなった頃だった。
 毎日のように届けられる新聞はいつの間にか俺の楽しみになっていた。
 しかし、世の中の流れは昔と殆ど変わらず、外界から遮断されて数年の俺に変わるものなど無いという現実を突きつけられている気もした。
 そんな相反する二つの感情を俺の中に生み出しながら、ある日おじさんが言った。
「兄ちゃん……最近変わったな」
「変わった?」
 おじさんは頷きながら話を続けた。
「あぁその辺の連中には分からないだろうが……表情に険が無くなったし、それと空気が変わったよ」
 空気が変わったというのはどういうことだろうか? 昔、誰かに言われた気もする。
「警戒してるというか自分以外は全て敵というか……昔はそんな感じだった。でも今の兄ちゃんは柔らかくなったって言えばいいのかな。なんか言いえてないんだよな……」
 おじさんは腕を組んで悩み始める。
 だから俺は思った事を言った。
「何かに心動かされてる?」
「あぁそれだそれ!」
 難題が解けたかのような顔をするおじさん。だから俺は補足する。
「心が動かされていると言うか……心を動かす記事を待っていると言った方が正しいです」
「心を動かす記事か……」
 そりゃ待つしかねぇなと言っておじさんは席を立つ。
 俺は時計を見て現在の時間を確認し、疑問に思った事を言葉にした。
「おじさん。まだ休み時間半分くらいありますよ?」
 そしておじさんは俺の問いかけに答えるように笑顔を返すと言った。
「兄ちゃん。今日俺出所なんだ」
 突然の事に俺は頭が真っ白になった。
 おじさんが出所する事は良い事だが……それは同時に明日から新聞が届けられなくなる事を意味していた。
 喜びから絶望へ叩き落され、目の前が真っ暗になる錯覚まで起きた。
 しかし、おじさんは手を顔の前で左右に振る。
「大体考えている事は分かるけどよ兄ちゃん。そんなにがっかりすんな手はうってある」
「えっ?」
「いつも新聞届けてくれる看守いるだろ? あいつに俺の代わりに、兄ちゃんの部屋に新聞を届けるように言ってある」
 その言葉を言うとおじさんは俺に右手を差し出す。
 俺はそのおじさんの右手を自分の右手で握り返す。
「兄ちゃんが望む記事が載る事を祈っているよ」
「こちらこそ……今までありがとうございます」
 その日おじさんはこの刑務所を出所していった。


 ― 彼女の事を思うと身が引き裂かれそうになる ―


 おじさんが言っていた通りに翌日から俺の所に、今日の日付の新聞が看守によって届けられるようになった。
 だが、新聞に載る記事に俺が待っている記事が載る事はなかった。
 どんなにしっかり見ても載る事はなかった。
 そうして日々は俺の思いを笑うように矢継ぎ早に過ぎていった。
 もはや俺が待っている記事など載らないのではないだろうか。
 その思いが強くなり俺を埋め尽くす。
 だがどんなにその思いが俺を埋め尽くそうとも……新聞を読む俺がいた。
 だからその時、俺は見逃しそうになった。
 芸能、音楽のページ。
 そこに小さな記事だが確かに載っていた。

 「天才ヴァイオリニスト、宇佐美ハル復活!!」と。

 それこそ、俺が待っていた記事だった。
 あの時、彼女を突き放した。
 負の連鎖を断ち切るために。
 だが不安は残った。
 彼女はもう歩き出してくれないのではないかと。
 そんな事は無いという自分といや……もしかしたらという自分がずっと俺の中にいた。
 だから願った。
 彼女が歩き出す事を。
 生けれども、生けれども、道は氷河なり。
 人の生に四季はなく、ただ、冬の荒野があるのみ。
 流れ出た血と涙は、拭わずともいずれ凍りつく。
 本当にそうだろうか?
 少なくても歩き出した彼女の道は。
 これからの人生は。
 厳しくもしかし四季に溢れた人生だと。
 そう思うのだ。

「…………ハル」



 ― ハル。君の事を想うと涙が溢れて……止まらない ―




 了


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