神刀夜行【1話】
「この場所からだと月は見えないな」
立ち止まって、星一つろくに見えない街の空を見上げる。
雲も無いのにも関わらず、空は漆黒を尚塗りつぶしたように黒に染まっていた。
見上げていた視線を戻せば、辺りにはぽつりぽつりと街灯の明かりがあるだけ。
前も後ろも人っ子ひとり見当たらない。
「早く家に帰るとしよう」
ちょっと不安になったので帰路を再び歩き出す。
「お兄さん」
不意に後ろから声がした。
若い女性の声――いや若いというよりは変声期にも入っていない子供の声だ。
さっき確認した時には誰もいなかったはずだよな……。
訝しがりながらも俺は後ろを振り向く。
そこいたのは純白のドレスを斑に、紅に染めた5から6歳ぐらいのショートヘアの女の子だった。
良く見れば綺麗な黒髪にも、べっとりと紅が付いているのが分かる。
だがそんな容姿よりも気になったのは、右手に掴んでいる包丁。未だに紅い雫を垂らしては地面を赤黒く染めていく。
「お兄さん……助けて」
少女はゆっくりと確実に俺へと近づいてくる。
絶句していた俺は少女の問いかけに言葉を返すことも動くことも出来ない。
「お願い。私を助けて」
少女のか細い声がまた俺の耳に入ってくる。
訳が分からん……でも。
気づけば、目の前まで来ていた少女の右手を俺は両手で掴み、ゆっくりと一本ずつ少女の指を離していく。
包丁を離させると、同時に少女は暗がりの向こうへと左手を持ち上げて指し示した。
「お願い……あの家へ――」
不意に声が途切れると、そのまま少女は気絶してしまった。
前のめりに倒れてきたので、咄嗟に持っていた包丁を地面に落として少女を受け止めた。
浅い呼吸だったが、どこにも怪我らしいものはなかった。少女を後ろに抱え、指し示した家を見る。
その家は暗がりでも分かるほど大きな家――屋敷だった。
行くべきだろうか? ただどう考えても厄介ごと以外には考えられなかった。
「つくづく俺は変なのに関わるよなぁ」
独り言を呟き、一度気持ちを落ち着かせる。
地面に落とした包丁を拾い、少女にも自分にも当たらないように後ろ手に。
細心の注意を払いながら、意を決して俺は屋敷へと向かった。
しかし屋敷の中に入る必要は無かった。目の前の惨状に門前で立ち尽くす。
屋敷に至る庭に大量の血液と大小様々な何かの塊が散りばめられていたからだ。
そっと少女を門の柱を支えにして座らせ、包丁も足元に置いておく。
両手を自由にしてから、その何かに近づいてみる。
紅い血溜まりの中にあるそれは紛れもなく肉片だった。
「……予想以上に厄介だなこれ」
吐き気や目眩は一切しなかった。
こういうのは見慣れていればある程度耐性は付くものだ。
そんな俺だからだろう。
肉片の間に落ちている、凡そ人の物ではない細かな毛に気づいた。
ゆっくりと摘んで見ると犬の毛に酷似している。
色は周りが暗いので分かりにくいが恐らく灰色か黒色といった所だろう。
「それに触れるな馬鹿者」
俺は咄嗟に声のした方に振り向いた。
そこに立っていたのはさっきの少女。
但し先ほどと違って、目付きはやや釣り上がっており意志の強さが垣間見えた。
その眼は暗がりでも分かる程、紅い色をしていた。
それに見惚れていた俺は、またも少女が間近に近づいてくるまで身動きを取れずにいた。
「だから注意したのだから、とっととそれを捨てろ!」
声を荒らげて少女が俺の持っていた毛を引っ手繰る。
と同時に毛が黒い塵となって空気に消えていった。
流石に困惑した俺だったが、少女が俺の手を掴み観察をしているのを見ると不思議と心が落ち着いていった。
少女の握っている部分から体全体へと温かみを感じる。
「穢れは見れなかったが……一応祓っておいたから感謝しろ」
そう言って握っていた俺の手をゴミを捨てるようにほっぽった。ひでぇ。
少女は紅い目で惨状を見回す。
「もう手がかりとなるものは無さそうだな」
そう言って少女は俺に向き直る。
「警察が来ると面倒だ。お前の家に連れていけ」
「はぁ?」
目の前の少女が何を言っているのか分からなかった。
「お前は馬鹿なのか? だからお前の家に連れていけと言っているだろう。二度も言わせるな」
ムスッとする少女。
「意味分からねぇ……まぁ連れて行くにしても。一つ聞かせてくれ」
これだけは聞いておかなくてはならない。
「なんだ」
「これはお前がやったのか?」
しばしの沈黙。
「私はやっていない。……来た時にはもう遅かった」そうして俯く少女。
その仕草は……初めて会った時のような少女らしさがあった。
少女の言うことを疑うのは簡単だった。
だが、疑った所で何が変わるわけでもない。
精々警察に連れて行くぐらいだろうが……現実的に考えれば間違いなく夜の警察署へ血まみれの少女を連れて行ったら俺の方がお縄だろう。
選択肢は結局一つしか無かった。
「分かった。じゃあとっとと俺の家へ向かおう」
少女は顔を上げると俺の判断に驚いていた。
「いやそんなに驚かれても……俺の家で良いんだろ?」
もう一度確認をいれた俺の言葉に少女は穏やかな顔で、「あぁ。よろしく頼む」そう言った。
奇しくも時間が経ったのか、月の光が丁度俺達を照らした。
月の光の中に立つ少女は、まるで絵画から、または一つの物語から抜けだしてきた人間ならざる美しさを放っていた。
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